焼津 駿河霊場 小川地蔵尊 時宗 寶城山 海蔵寺




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海蔵寺の本尊厨子



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

昭和44年12月17日

所有者

海蔵寺

解説

間口1.35m 奥行き1.16m 高さ4.38        
入母屋造り軒唐破風付、屋根柿葺、二重垂木。
安永9年(1780)紀州家寄進のものと伝えられ、江戸後期の
特徴をそなえ、極めて手の込んだ彫刻が施されている。
金具の装飾も多く、まことに華麗である。
海蔵寺は江戸初期以来、紀州徳川家代々の信仰が厚い。





海蔵寺の絵馬



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

平成9年9月30日

所有者

海蔵寺

解説

幅164cm、高さ93cm
西尾主水忠知が香集寺に奉献した直後の寛文7年(1667)5月24日に
奉献したものである。
香集寺の「絵馬」と同じく、文の筆者は塙宗悦法印、絵師は狩野元俊である。
「奉掛絵馬一疋、地堂菩薩堂前」と書かれている。



絵馬からぬけ出した馬「やいづ昔ばなし」より海蔵寺の本堂に、大きな古い絵馬があります。
この絵馬は、江戸時代に遠州横須賀城のお殿様が寄付したものでお殿様の愛馬「黒雲」を描いたものです。
絵師は心を込めて馬を書きましたが、馬の手綱(馬をあやつる為の綱)を描きおえる前に倒れてしまい、
絵馬はそのままお寺に奉納されました。
ある年、大きな地震がありました。
地震がおさまって、お坊さんが本堂の様子を見に行くと、不思議なことに絵の中の馬がいません、
おどろいて探したところ、草を食べている馬を見つけました。
急いでつかまえようとしましたがなかなかつかまえることができません。
そこで、馬がぬけ出した絵を持ってきて、この絵を馬に見せるようにして絵の中に馬を追い込みました。
こんなことがあったので、その後、馬が逃げ出さないように、絵師に手綱を描きたしてもらい、本堂にかけました。
それからは、二度と馬が逃げ出すことはありませんでした。


海蔵寺の厨子



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

昭和44年12月17日

所有者

海蔵寺

解説

間口49.5cm奥行20.5cm高さ67.5cm(中厨子間口9.0cm高さ18.0cm)
宮殿造り木製本瓦葺入母屋造り軒唐破風、妻入り、朱塗金蒔絵、金箔押し、
扉裏に葵紋がある。
中厨子は外面金梨地、扉上部金蒔絵葵紋、飾金具付観音開き、
内面金箔押しに麻の葉模様切金押し、高蒔絵葵紋。
元和5年(1619)徳川頼信(紀州初代)の守本尊と共に奉納されたものである。
厨子とは、仏像や経典を安置する両扉箱形の容器で、
外面には漆や箔などを塗り内面には画図などが描かれている。





海蔵寺の御戸帳



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

平成3年2月27日

所有者

海蔵寺

解説

縦130.5cm横101.5cm品質は絹織物。
この御戸帳は、田中藩藩主第17代本多紀伊守正供(1746〜1777)が寄進したもので、
裏面に正供自らが寄進した理由を記し、
「安永四年六月二十四日」(1775)の奥書がある。
延命地蔵菩薩を厚く信仰しながらも短命で終わった
藩主本多正供を知るうえで貴重な資料である。
御戸帳は、厨子の中の本尊の前にたらす錦である。





海蔵寺本堂



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

平成27年11月4日

所有者

海蔵寺

解説

人々が集う信者寺である海蔵寺は、江戸時代から人々の多く集う寺として繁栄し、その間には信者や檀家に支援されて伽藍や境内の整備を行ってきた。
安政の大地震が起こり、諸堂すべてが大破したが、紀州家を筆頭に、多くの信者から浄財が集まり、6年後の万延元年(1860)9月18日に本堂の上棟式を行った。
現在の本堂はこの時のもので、総欅造りで、その後の地震にも耐えた堂々たる本堂である。





一遍上人縁起絵 断簡



指定の種類

市指定文化財

指定年月日

平成3年2月27日

所有者

海蔵寺

解説

鎌倉時代中期の僧で、時宗の開祖である一遍上人(1239年〜1289年)の
伝記の絵巻の断簡で描線ははっきり残り、鎌倉末期まで遡ることができる
かなり古様の絵巻の断簡である。
描かれているのは熊野本宮証誠殿において、熊野権現より神託を授かるという
有名な場所である。
阿弥陀仏の権現である熊野の神が、白装束に長頭巾をかぶった山伏姿で
一遍の前に現れる。すべての人を救う阿弥陀仏は、信・不信に関係なく
念仏札を配り、念仏を唱えさせるようにと勧める。
ここに一遍の仏の救済の理論が確立したのである。





金泥延命地蔵菩薩経

田中城藩主本田家寄贈
田中城藩主本田家寄贈



徳川家康筆 梅絵 一幅

紀州徳川家寄贈
 
 



徳川頼宣筆 竹絵 一幅

紀州徳川家寄贈
 
 



徳川治宝(紀州藩主)筆

山号額



釣灯篭 一対

西尾忠成 (横須賀藩主) 寄進
元禄四年 (1691年)



焼津七福神「大黒尊天像」

焼津七福神霊場
 
 焼津七福神は、昭和56年の焼津市制30周年に当り、企画が持ち上がりました。当時の信香院第30世代住職高田竜雄老師が中心となり、翌年の5月関係七ヶ寺に七福尊天が合祀され、焼津七福神めぐりがスタートしました。
 当山には大黒尊天をお祀りしております。大国尊天は、元はインドのシヴァ神であり、日本においては大国主命と同一神であります。金運・財徳・福徳のご利益があります。大黒尊天は、本堂外陣左手にお祀りしてあります。



賓頭盧尊者

 賓頭盧尊者は、釈尊の弟子であり、弟子中でも獅子吼第一と称された。十六羅漢の一人でもある。中国では像を食堂(じきどう)に安置して祀たが、日本では寺のお堂に安置し、撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の習慣が広がった。東大寺大仏殿前にある像が著名である。
 当山の賓頭盧尊者は、本堂外陣右手にお祀りしております。



六地蔵尊

準備中



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